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名古屋地方裁判所 昭和63年(ワ)2419号 判決 1990年7月20日

原告 間瀬武

右訴訟代理人弁護士 加藤豊

被告 株式会社石川エキスプレス

右代表者代表取締役 塩谷伸夫

被告 階戸伸夫

右両名訴訟代理人弁護士 吉見秀文

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、原告に対し、連帯して二一四五万一二九一円及びうち一八九一万一二九一円に対する昭和六一年三月二三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  第1項につき仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  交通事故(以下「本件事故」という。)の発生

原告と被告階戸伸夫(以下「被告階戸」という。)との間で左記のとおり、交通事故が発生した。

(一) 日時 昭和六一年三月二二日午後五時三四分ころ

(二) 場所 愛知県半田市浜田町三丁目一八番二七号先国道二四七号線上

(三) 態様 原告が青信号に従って、自転車に乗って横断歩道を通行中、反対方向から左折してきた被告階戸運転の普通貨物自動車(以下「加害車両」という。)が原告に衝突し、原告が転倒・負傷した。

2  責任原因

(一) 被告階戸

被告階戸は、左折する際に横断歩道を直進する自転車などのいないことを確認する注意義務を怠り、漫然と左折した過失により本件事故を発生させたものであるから、民法七〇九条に基づき、本件事故により生じた損害を賠償する責任がある。

(二) 被告株式会社石川エキスプレス(以下「被告会社」という。)

被告会社は、被告階戸の使用者で、加害車両の所有者であるから、自己のために加害車両を運行の用に供する者として、自賠法三条に基づき、本件事故により生じた損害を賠償する責任がある。

3  損害

原告は、本件事故により、頭部挫傷・前頭部骨折の重傷を負い、左記のとおり入院して治療を受けたが、自賠法施行令二条別表の後遺障害等級第五級に相当する後遺障害が残った。

(一) 入院治療費 八二五万七九四五円

(1)  半田市立半田病院

期間 昭和六一年三月二二日から同年五月一一日まで

治療費 二〇五万九四八〇円

(2)  共和病院(大府市)

期間 昭和六一年五月一二日から同年八月七日まで

治療費 一五七万八八九五円

(3)  山本病院(豊橋市)

期間 昭和六一年八月七日から昭和六三年一月五日まで

治療費 四六一万九五七〇円

(二) 付添看護料 二五二万円

一日あたり四〇〇〇円、一か月を三〇日とし、二一か月を乗じたもの

(三) 入院雑費 七五万六〇〇〇円

一日あたり一二〇〇円、一か月を三〇日とし、二一か月を乗じたもの

(四) 入院慰謝料 五〇〇万円

(五) 休業損害 三六三万七二〇〇円

原告の受傷当時の年齢(六二歳)の平均賃金月額一七万三二〇〇円に、二一か月を乗じたもの

(六) 後遺障害による逸失利益 一二二〇万八五二一円

前記平均賃金月額に一二か月、就労可能な七年間の新ホフマン係数(五・八七四)をそれぞれ乗じたもの

(七) 後遺障害慰謝料 一一〇〇万円

(八) 弁護士費用 二五四万円

(九) 以上合計額 四五九一万九六六六円

(一〇) 既払金控除

原告は、被告から、治療費として三六三万八三七五円、雑費・生活費等として一〇〇万円、調停に基づく賠償金として六〇〇万円、加害車両の自賠責保険から後遺障害分一三八三万円、合計二四四六万八三七五円を受領したから、残額は二一四五万一二九一円となる。

4  調停無効

(一)被告らは、本件事故による損害賠償につき、草間豊弁護士を代理人として民事調停を申立て、被告らと原告を代理した原告の娘間瀬照子(以下「照子」という。)との間で、調停が成立している(半田簡易裁判所昭和六二年(交)第七号、以下「本件調停」という。)。

(二) しかし、本件調停は、左記の事情により、錯誤により無効である。

(1)  本件調停は、前記山本病院での治療について、原告の失見当識、暴力行為、幻覚、感情異常、失禁、性的異常行為の症状を老人性痴呆症によるものとして処理し、本件事故との因果関係を前提とせずに進めたため、被告らはその治療費を負担しなかった。

(2)  本件調停において認められた付添看護料は二九万二六九〇円、入院雑費は四四万八〇〇〇円、入院慰謝料は二五〇万円であるが、いずれも原告の入院期間二一か月に照らして、経験則上社会的に相当とされている前記一3(二)ないし(四)の額を著しく下回るものである。

(3)  本件調停において認められた休業損害は一二八万円、後遺障害による逸失利益は七二四万円、後遺障害慰謝料は九六八万円であるが、いずれも経験則上社会的に相当とされている前記一3(五)ないし(七)の額を著しく下回るものである。

(4)  照子は、経験則上社会的に相当とされている交通事故の損害賠償範囲・額について無知であり、そのため前記因果関係の有無及び賠償額についていずれも相当なものと誤信して争わず、かつ、仮に十分な知識を有していれば本件調停において合意しなかったものである。

(三) 本件調停は、以下の事情により、信義誠実の原則に反し、無効である。

(1)  照子は、経験則上社会的に相当とされている交通事故の損害賠償範囲・額について無知であるのに対し、調停申立代理人及び実質的支払人である中部共済共同組合の本件事故担当者蛭沢知弘は交通事故損害賠償の専門家である。

(2)  右両名は、前記山本病院における治療費について、共和病院における他患者の暴行や老人性痴呆症などという、全く根拠のない事実を原因として主張し、その負担を回避した。

(3)  右両名は、調停において、当時の既払金の他三〇〇万円という、経験則上社会的に相当とされている損害賠償額を著しく下回る金額を呈示し、それで困窮した被申立人側が市に返還を義務付けられる生活保護費に相当する額の請求をしたのに対し、あたかもこれに譲歩・協力するかの如く装い、照子や調停委員が気づかぬことを奇貨として、実は依然経験則上社会的に相当とされている損害賠償額を著しく下回る金額において調停を成立せしめた。

よって、原告は、被告らに対し、本件交通事故による損害賠償として連帯して前記二一四五万一二九一円及びうち弁護士費用を除く一八九一万一二九一円に対する本件事故の翌日である昭和六一年三月二三日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1のうち、(三)のみ否認し、その余は認める。

2  同2は認める。

3  同3のうち、(一)(1) ないし(3) 及び(一〇)の既払額のみ認め(ただし、(一)(3) については本件事故との因果関係を争う。)、その余は不知。

4(一)  同4(一)は認める。

(二)  同4(二)及び(三)は争う。

第三証拠<省略>

理由

一  請求原因について

1  請求原因1(交通事故の発生)は、事故の態様を除き、当事者間に争いがない。

2  同2(責任原因)は当事者間に争いがない。

3  同4(調停無効)について判断する。なお、同3(損害)については、同4の判断に必要な限度で判断することとする。

(一)  一般に、不法行為による損害賠償の調停において、被害者が一定額の支払を受けることで満足し、その余の賠償請求権を放棄したときは、客観的に調停当時にそれ以上の損害が存在していたとしても、被害者は調停調書記載の金額を上回る損害については、事後に請求できない趣旨と解するのが相当である。しかし、争いの目的でない事項に錯誤があり、これが調停の要素となっている場合には、当該調停は民法の一般原則に従って無効となる余地がある。そして、交通調停事件における損害賠償額の算定は、特段の事情がない限り、経験則上社会的に相当とされている方法によってなされることが当事者の合理的意思であるから、調停の前提とされた事実に照らし、損害賠償額が右算定方法に著しく反し、かつ、それが当事者の錯誤による場合には、錯誤無効の主張をなしうると解せられる。

(二)  そこで、本件調停において認められた損害賠償額が、調停の前提とされた事実に照らして、右算定方法に著しく反するか否かを検討する。

(1)  <証拠>によれば、本件調停当時、原告の症状につき、本件事故によるものとする診断書と老人性痴呆症によるものとする診断書の双方が提出されている事実が認められ、また、生活保護を受けていた原告のアルバイト収入につき、十分な証明力ある証拠が存在しなかった事実が認められ、右各事実から、本件事故と原告の症状との相当因果関係及び原告の収入について、立証に困難な部分が存した事実が認められる。そして、立証に困難が伴う損害については、賠償額の算定上相応の減額評価を受けざるをえない。以上によれば、本件調停において争いなく認められるべき損害賠償の範囲は、昭和六一年三月二二日から同年八月七日までの前記半田病院及び共和病院の入院期間(一三九日)に対応する治療費(三六三万八三七五円、当事者間に争いがない。)、付添看護料(一日あたり三五〇〇円が相当と認める。一三九日分四八万六五〇〇円)、入院雑費(一日あたり一〇〇〇円が相当と認める。一三九日分一三万九〇〇〇円)及び入院慰謝料(一四〇万円が相当と認める。)の合計五六六万三八七五円にとどまり、その余の損害の賠償は前記各事実の立証の成否に依拠せざるをえないことになる。

(2)  ところで、原告の後遺障害による損害については、<1>前記のとおり、本件調停当時の原告の症状と本件事故との相当因果関係及び原告の収入の立証の点で問題があったこと、<2>もっとも、<証拠>によれば、被告らは、訴訟になればともかく、調停においては、特に争わずに、被害者に対し自賠責保険金が支払われるよう、請求手続きにも協力したこと、<3>事故との相当因果関係等に問題がある場合に、被害者が後遺障害による損害については、自賠責保険に請求し、それで満足するということは他にも例があり(当裁判所に顕著である。)、著しく不合理とはいえないことを併せ考えると、本件調停においては、後遺障害による損害については、被害者において自賠責保険金(結果的に一三八三万円となった。)を請求し、それ以上は加害者に対して請求しないとの合意が成立したものと解するのが相当である。

(3)  そうすると、問題は、原告が山本病院に入院した昭和六一年八月七日以降の治療費、付添看護料、入院雑費、入院慰謝料をどの程度本件事故と相当因果関係ある損害と認めうるかという点である。

そこで判断するに、<1>前記のとおり、本件調停当時の原告の症状と本件事故との相当因果関係については問題があったこと、<2><証拠>によれば、原告の後遺障害診断書は、共和病院においては昭和六一年八月八日付けで作成されていること、もっとも、そこから転院した山本病院において同年一一月二六日ころには症状の一部改善があったが、その後は余り変化のないことが認められることを併せ考えると、原告主張の昭和六一年八月七日から昭和六三年一月五日までの山本病院の入院期間(五一七日)に対応する損害全部を、本件事故と相当因果関係があり、かつ、症状固定前の損害と認めることはできず、争われれば、せいぜいその二分の一の限度で損害と認められる蓋然性が相当あったものといえる。

以上によれば、右山本病院の入院期間に対応する治療費(原告主張を前提に四六一万九五七〇円)、付添看護料(一日三五〇〇円×五一七日=一八〇万九五〇〇円)、入院雑費(一日一〇〇〇円×五一七日=五一万七〇〇〇円)及び入院慰謝料(入院総日数六五六日分三二〇万円から前記一三九日分一四〇万円を控除した一八〇万円が相当と認める。)の合計八七四万六〇七〇円の二分の一にあたる四三七万三〇三五円が損害となる。

(4)  さらに残された問題は、原告の収入が証拠上不明確であることとの関係で、休業損害をどの程度認めうるかという点である。

<証拠>によれば、原告は、本件事故前から半田市より生活保護費の支給を受けていたこと、本件調停により損害賠償金を受け取ると、本件事故日以降の分については支給を受けた生活保護費を半田市に返還しなければならないこと、この点は調停の席でも十分当事者双方に認識されていたことがみとめられる。

また、<1><証拠>は必ずしも作成時期が明らかではないが、原告が一か月に一一日間勤務して六万六〇〇〇円の収入を得た月があるものと認めうること、<2><証拠>によれば、原告は、本件事故前の昭和六一年一月ないし三月の三か月間、生活扶助と住宅扶助だけでも月平均九万五〇八四円の生活保護費の支給を受けていたことが認められることを併せ考えると、原告の休業損害の算定にあたっては、原告の収入は、少なくとも原告主張の当該年齢の平均賃金月額一七万三二〇〇円の七割相当(その程度なら生活保護の趣旨に反しないものと認められる。)の一か月一二万一二四〇円はあったものとみるのが相当である。

右金額を基礎に、前記事情を考慮して休業損害を算定すると、次のとおり一六〇万六四三〇円となる。

121,240×((139+517×0.5)/30)= 1,606,430

(5)  以上のとおり積算された相当損害金を合計してみると、(1) 五六六万三八七五円、(2) 一三八三万円、(3) 四三七万三〇三五円、(4) 一六〇万六四三〇円の合計二五四七万三三四〇円となる(なお、本件調停成立時には弁護士費用は不要であった。)。

右金額から調停前の既払金四六三万八三七五円(当事者間に争いがない。)及び自賠責保険金一三八三万円を控除すると、残額は七〇〇万四九六五円となる。

(6)  右の事実関係に照らすと、本件調停において合意された六〇〇万円という金額が経験則上著しく不相当なものとまでは認めることができないから、原告の錯誤による無効ないし信義誠実の原則違反による無効の主張はいずれも理由がない。

二  以上によれば、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 芝田俊文)

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